田児賢一は今でこそYouTuber「TAGO KEN(タゴケン)」として有名ですが、かつては日本バドミントン界のエースとして活躍したことをご存じでしょうか?
近年のトップ選手に比べ、世界の第一線でプレーした期間は長くないものの、彼の存在は日本のバドミントン界に大きな影響を与えました。
今回は、「バドミントン選手・田児賢一」の特徴や功績などを詳しくご紹介します。
「バドミントンプレーヤー田児賢一」とは?
現在はバドミントン系YouTuberとしてお馴染みの田児ですが、どのようなバドミントン選手だったのでしょうか。
田児のバドミントン選手としての特徴をご紹介します。
世界のトップに挑んだエース
田児はかつての日本男子シングルスにおけるエースです。
幼少期から才能を開花させ、小学校・中学校・高校・社会人、すべての世代で全国優勝しました。
戦いの場を世界のフィールドに変えても勢いは止まらず、当時20歳の田児は、日本人選手44年ぶりとなる全英オープン(2010年)の決勝に進出します。
決勝は惜しくもマレーシアの英雄リー・チョンウェイ選手に敗れてしまったものの、若きホープの登場に世界が驚きました。その後も、数々の国際大会で好成績を残します。
田児が活躍する以前は、日本の男子シングルスは世界で目立った成績を残せていませんでした。
田児は自らのプレーが世界で通用することを証明し、日本バドミントン界の先駆者になったといえるでしょう。
プレースタイル
手堅いディフェンスで相手を崩し、チャンスとみては攻撃を仕掛けるラリー型の選手でした。
なによりも「ミスをしないこと」を大事にしたプレーは、パワーや体格に恵まれた海外選手に勝つために、一種の解決策を提示したといっていいでしょう。
また、ときには高速のドライブやトリッキーなネットショットで相手を翻弄。
類まれなるバドミントンセンスで、天才と呼ばれました。
憧れは「タウフィック・ヒダヤット」
少年時代の田児は、レジェンド選手の一人であるタウフィック・ヒダヤット(インドネシア)のプレーに夢中になり、プレーはもちろんグリップの巻き方まで真似したそうです。
ヒダヤットもトリッキーかつ独創的なプレーを魅力としていることから、田児のプレースタイルに大きな影響を与えました。
田児の経歴・キャリア
田児のバドミントン人生は、どのようなものだったのでしょうか?その歩みを振り返ります。
幼少期
田児は1989年(平成元年)、埼玉県蕨市に生まれました。
両親ともにバドミントン選手だったこともあり、家には「360度ラケットがあった」というほど、バドミントンに囲まれた環境で育ちます。
母は全日本総合を合計10回制した田児よし子(旧姓「米倉」)であり、所属チームであるNTT東日本の練習に、幼い頃から連れられていました。
また、家でも世界トップ選手の映像を繰り返し見ていたそうです。
教わるよりも先に、目から一流の技術を吸収し、世界で活躍する土台を築きました。
小学校時代
小学生の頃から、埼玉県の名門ジュニアチームの「チャレンジャー」に所属します。
11歳のときに、全国小学生大会5年生以下の部・男子ダブルスで優勝。のちに中学・高校時代にペアを組む松丸一輝と全国大会を初制覇します。
一時期はサッカーにも熱中していたようですが、バドミントンに専念することを決めたのも、この時期です。
中学校時代
ペアの松丸とともに、埼玉栄中学校に進学。
2年生と3年生時に、全国中学校大会の団体とダブルスを制し、史上初となる2年連続の2種目制覇を成し遂げました。
当時の田児は同世代の選手と比べて小柄であり、パワーやフィジカルでは勝てない相手に、「どうやって相手の逆をつくか」を考えたといいます。
田児の意表をつくプレーは、地道に作り上げられたのでしょう。
高校時代
埼玉栄高校に進学します。
1年生の頃から全国高校総体(インターハイ)の優勝を経験。翌年には同大会の団体とダブルス(団体戦は出場せず)を、3年生時にはシングルスを加えた全種目を制覇しました。
また、国内にとどまらず、世界への登竜門とされるアジアジュニア選手権・シングルスで優勝(高校2年生時)を飾ります。
さらに、世界ジュニア選手権・シングルスで準優勝し、高校生ながら日本代表にも選出されました。
社会人時代|国内での活躍
高校を卒業すると、NTT東日本に入社。
2008年の全日本総合では、史上最年少(20歳4カ月)で男子シングルスを制覇します。
その後、田児は同種目で前人未到となる6連覇を成し遂げました。
また、社会人からはシングルスに専念していたものの、日本リーグ(現・S/Jリーグ)ではダブルスでも活躍しました。
社会人時代|海外での活躍
先述したとおり、日本勢44年ぶりとなる2010年の全英オープン決勝に進出し、準優勝しました。
2012年にはロンドン五輪に出場しますが、惜しくも予選敗退に終わります。
2013年のトマス杯(男子国別対抗戦)では、第一シングルスとして起用され、日本史上初となる優勝に大きく貢献します。
そのほかにもヨネックスオープンジャパン(2013年)、フランスオープン(2012年・2013年)、マレーシアオープン(2012年)、インドネシアオープン(2014年)など、数々の大会で準優勝を遂げました。
しかし、2014年以降は怪我や不調に悩まされ、2015年には日本代表を自ら辞退しました。
プロ
2016年に違法賭博行為が発覚。
日本バドミントン協会は田児に対して無期限の協会登録抹消処分を下しました。
事実上、日本ではバドミントン選手としての活動ができなくなります。
その後は海外に活躍の場を求め、マレーシアのバドミントンリーグにて、プロ選手として復帰しました。
復帰後も世界のトップ選手を倒すなど、実力の高さを示しました。
現在
2010年代後半になると、現役選手としての活動は少なくなりました。
一方で、ジュニアやトップ選手の指導にあたるなど、自らのバドミントン哲学の継承に力を注ぎ始めます。
2019年には「TAGO KEN(タゴケン)」としてYouTubeチャンネルを開設。
歯に衣着せぬ発言や、元トップ選手視点からの技術解説などが人気を博し、チャンネル登録者数は9万人を超えています(2022年9月現在)。
田児賢一は、今なお日本のバドミントン界に影響を与え続けています。
主な戦績
国内大会
- 2000年 – 全日本小学生大会 ダブルス優勝
- 2003年 – 全国中学校大会 ダブルス優勝
- 2004年 – 全国中学校大会 ダブルス優勝
- 2005年 – 全日本ジュニア 男子ダブルス優勝
- 2006年 – 全国選抜シングルス・ダブルス優勝、インターハイ シングルス、ダブルス優勝
- 2007年 – 全国選抜団体戦優勝(団体戦のみの記念大会)、インターハイ シングルス・ダブルス・団体戦優勝
- 2008年 – 全日本総合選手権 男子シングルス優勝
- 2009年 – 全日本総合選手権 男子シングルス優勝
- 2010年 – 全日本総合選手権 男子シングルス優勝
- 2011年 – 全日本総合選手権 男子シングルス優勝
- 2012年 – 全日本総合選手権 男子シングルス優勝
- 2013年 – 全日本総合選手権 男子シングルス優勝
国際大会
年 | 大会 | 種目 | 成績 |
---|---|---|---|
2006 | アジアジュニア選手権 | MS | 優勝 |
2007 | スウェーデン国際 | MS | 優勝 |
2007 | スコットランド国際 | MS | 優勝 |
2007 | 韓国国際 | MS | 準優勝 |
2007 | 世界ジュニア選手権 | MS | 準優勝 |
2008 | ベルギー国際 | MS | 優勝 |
2010 | 全英オープン | MS | 準優勝 |
2011 | フランス・オープン | MS | 準優勝 |
2011 | スーパーシリーズファイナルズ | MS | 出場 |
2012 | マレーシア・オープン | MS | 準優勝 |
2012 | ロンドンオリンピック | MS | 出場 |
2013 | インド・オープン | MS | 準優勝 |
2013 | ヨネックスオープンジャパン | MS | 準優勝 |
2014 | トマス杯 | TEAM | 優勝 |
2014 | インドネシア・オープン | MS | 準優勝 |
まとめ
今回は田児賢一のバドミントン選手としての特徴や功績などをご紹介しました。
彼の目覚ましい戦績は、日本がバドミントンの強豪国となる土台をつくったといえます。
一時は日本のバドミントン界から離れてしまいましたが、現在は徐々に活動の場を広げています。
これからも彼の活躍に期待しましょう。
田児さんのTwitterもなかなか辛口な投稿が多いですね。